(抜粋)

宮入慶之助記念館だより  13号

宮入慶之助記念館     2010(平成22)年 9月30日発行


巻頭言  「ウイーンで想う」            多田 功(名誉館長)


  酷暑を避けるように、私は先週ウイーンを訪れていました。緯度が高いだけに夏も涼しく、菩提樹(正確にはシナノキ属)の並木が印象的でした。ウイーン市の目抜き通りには「ペスト記念碑」が立っています。これは17世紀以来数次にわたりペスト流行が見られた帝都で皇帝レオポルドⅠ世が、その流行終末を神に感謝して建てたものです。ウイーンにペストがどのように流行したかはシュメルツアー著「ウイーン:ペスト年代記」に詳しく書かれています。その原因や流行の機構がまったく不明の時代に、市民たちの間に10万人を超す死者を出した疾病はまさに恐怖の「死病」でした。オーストリアの歴史家フリーデルはこう述べています。「いかなる時代もその時代特有の疾病を生み出すが、それはその時代が生み出した全てのものと同様にその時代の相貌(かお)となる」と。ウイーンを恐怖の底に陥れたペストはいわばその時代を象徴する疾病でした。最近のエイズの驚くべき出現もフリーデルの言葉を裏付けています。
 日本各地における住血吸虫病は長くその地域の「死病」でした。甲府の民謡に「龍地、団子に嫁に行くには 棺おけを背負っていけ」とあるそうです。敗軍の武田勝頼に面会したある武将は、自分がこの業病のためお役に立てないことを恥じて御暇乞いを述べています。19世紀以来、初めて近代医学が世界の死病の原因(病原体)と感染経路とを次々に明らかにしてきたことは皆様ご存知のことと思います。しかし新しい感染症や既知の病原体でも異なった装いで次々と人類を襲ってくるのが現代世界の危険な状況です。
 宮入慶之助記念館は昨年、設立10周年を迎えました。住血吸虫の感染経路を最初に明らかにした宮入博士を記念する本館は、博士の探求の精神を後学に伝え、新しい感染症の時代への対応を模索しています。 
 週末、私はウイーン大学を車窓に見ながら、この大学から7人のノーベル賞受賞学者が出たことの歴史の重みを感じながら空港に向かったことでした。

開館10 周年記念行事を終えてー今後の展望―        宮入源太郎 (館長)


記念行事から今年の通常総会を通じて、多くの方々から貴重なご意見・ご提言をいただきました。ここまでのご提言と議論を通じての私の見解と今後の展望を述べさせていただきます。

  100年以上を夢見て
 1.記念館の設立当初に考えた「宮入慶之助の業績を末永く顕彰し後世に伝える」ことは、彼の生涯と人物像及び業績についての正確な情報を後世に伝えることであります。「末永く」を考えるなら「永久」が理想でしょうが、我々の身の程で考えるなら、どんな形式にせよ当館所蔵の資料は100年以上は保存されるようでありたいと思います。
このための情報の保存・記録媒体としては、文字や画像を紙に印刷したもの、即ち印刷物が最も実績と信頼があります。
まず現有の印刷物を滅失させないように安全に管理・保存し続けたい。そして、新しく取得した情報とともに整理・再構成して、より新しい情報とした印刷物を発刊し、多くの人々に所蔵していただくとともに、国会図書館をはじめ公立図書館に献本して保存を確保したい。今後以下のような印刷物の発刊を検討したい。
  *宮入慶之助の著作を集大成した全集
  *わが国における日本住血吸虫症撲滅にいたる歴史書(邦文版・英文版)
  *宮入慶之助の伝記
  *当館の収蔵品目録
 2.私たちの調査によると、山梨県、広島県、福岡県、佐賀県には日本住血吸虫症の歴史にまつわる幾つかの遺構が残されており、これらは年々風化が進んでいると感じています。この問題についての関心の度を深めて行きたい。
  当館ならではの展示をめざして
当館は、宮入慶之助に関する資料(書物とゆかりの品)とカイの発見から世界に先駆けて難病・日本住血吸虫症を撲滅するまでの歴史資料とを保存・展示し、それを観覧することで医の歴史の一隅を学ぶことのできる唯一の施設としたい。
 1.現在の展示は、開館当初のパネルを主体として、その後収集した品物や新しいパネルを追加した状態で、雑然として系統性や判り易さに欠けることは否めません。
このことを改善し内容的にも充実した展示となるように模様替えを計画したい。
特に、日本住血吸虫のライフサイクルをより判りやすくし、研究者の方々から寄贈いただいた標本や資料を駆使して出来るだけ実物または顕微鏡写真を使い卵から中間宿主を経て人体に入り成虫にいたるまでを説明したい。
 2.日本住血吸虫症にかかる歴史を説明する歴史コーナーを新設したい。
 3.宮入慶之助の研究を支えた重要なツールとしての顕微鏡に関する展示を計画し顕微鏡を通じた微生物の世界を体感し、その重要性を学習できる展示を実現したい。
  中間宿主発見100年記念事業
 2013年は中間宿主ミヤイリガイが発見されてから100年目になります。
この節目を迎えての記念事業を行うべく企画・検討をすすめたい。
  障壁を乗り越えて
 以上のような構想を実現するための条件を考えると、ヒト・モノ・カネの全てについて問題点が山積しています。許される時間も短いのが現実です。
しかし、これにあきらめる事なく、出来ることを実現させながら、100年後もこの難病克服の歴史をふりかえることができ、その歴史を語ることができる人が存在することを夢見て活動を続けたいと考えています。

記念館活動記録

     平成21年5月15日に特定非営利活動法人宮入慶之助記念館の理事会がおこなわれました。(於ホテルサンルート長野東口)設立10周年記念企画を成功させた総括にもとづいて、今後の夢・抱負や、整備しておく必要があること等が話し合われました。(2013年は日本住血吸虫の生活環が完全に解明されてから100年目にあたるのでなにか企画が必要ではないか?財政問題、正会員の会費を有料化するようにしたらどうか?記念館の施設の問題点等)
    引き続き同会場で、特定非営利活動法人宮入慶之助記念館の平成21年度総会が開催されました。参加者13名、委任状5で総会は成立しました。平成21年度事業報告、平成21年度収支決算報告、平成22年度事業計画、役員再任の議案について討議され、提案通りに可決されました。

 林 正高氏が、ノバルティス地域医療賞を受賞

 昨年の10周年記念講演会で講演をいただいた、林 正高氏が、2月に第17回ノバルティス地域医療賞を受賞されました。甲府市の病院で地方病といわれる日本住血吸虫症の研究と治療に長年取り組み、国内最大の有病地域からこの病気を撲滅するために優れた功績をあげられたことが評価されたとのことです。当館へも多大なご支援をいただいている林先生の受賞をお慶び申し上げるとともに益々のご活躍をお祈りいたします。
 橘田活子様(山梨県在住)からの手紙

 前略 「宮入慶之助記念館だより」第12号をご送付いただきましてありがとうございました。ご返事が遅れましたが読まさせていただきました。ありがとうございます。
私、ひょんなことから「杉山なか」に大変関心をもちまして少しばかり調べていくうちに地方病の恐ろしさを知りました。長い歳月を苦しんで亡くなっていった人々、そして又、地方病(日本住血吸虫病)に真剣に取り組んでこられました多くの人々の尊い姿。
その中で、死の貝ともいわれました「ミヤイリ貝」を発見されました宮入先生の業績は山梨でも多大な評価をもって今でも語りつがれております。14年程前に山梨では終息宣言が出されましたが、この病気は今でも東南アジアなどには存在しているという話も聞いております。風化させてはならない問題と考えている者の一人です。
私もこの問題を取材いたしまして問題の深さにたちすくみ中途半端のまま一つの課題として自分の中に残して現在に至っております。いつかはまとめてみたいと思っております。
貧者の一灯として金一封をお送りいたしました。春の洋服を欲しいと思い貯めておりましたものを断念し、こちらにまわさせていただきます。
運営も厳しい由ですがどうかがんばって下さい。
とりとめなく乱筆乱文ですが、私の思いがつたわりましたらうれしく存じます。 草々

 新しく入手した資料

 ○医海叢書第壱編「自然科学」宮入慶之助著医海時報社、明治45年7月10日発行)
 慶之助は、これまで多くの訳文を発表したので、これをまとめたもの。コッホの文については、半分以上が訳文だが、自分なりに構成して書き加えたところもあると序文で記しています。
 本の内容・構成は、ヘルムホルツの、1862年のハイデルベルヒ大学総長就任時の演説。ラムゼエの大学に於ける式場演説。エールリッヒのノーベル賞受賞講演。ローベルト・コッホの章は、この本全体が274ページであるうちの半分がコッホの章に割かれています。
 慶之助は、この本発行の約一ヶ月後の、大正元年8月20日には、「ローベルト・コッホ氏文集」を南山堂から発刊しています。
○能氏「内科臨床講義」第弐巻(宮入慶之助、宮本叔訳 半田屋医籍商店 明治28.7)
慶之助は、能氏「内科臨床講義」1~4を、明治27~31年にわたり、宮本叔と共訳発刊しました。ハ・ノートナーゲル氏は、オーストリア、ウイーン大学内科学教授で、その講演を翻訳したものです。
発行時期は、京都府医学校を辞した頃から第一高等学校教授になり、その後内務省の役人になった頃の発刊です。
共訳者の宮本叔(ミヤモト ハジメ)は、同郷松代出身で、2歳年下ですが生涯の親友でした。元東京帝国大学教授、元東京市立駒込病院院長、医学博士。
○「再び酸素注射の効果に就て」大島濤兎著、宮入慶之助序
 慶之助は、この本の序文を書いています。
大島濤兎(オオシマ・トウト)は、明治28年第一高等学校医学部を卒業したと述べています。慶之助が第一高等学校医学部教授に内閣府から任命され着任したのは、明治28121日付でした。従って、大島は、慶之助の教え子だったのではないでしょうか。大島は、群を抜いて優秀な生徒であったので強い印象があったのだと推測されます。ここで述べられている酸素注射療法は、その後の医学界でどのような評価を受けたのか分かりません。
大島は、孤高のホタル研究家で慶之助の友人でもあった神田左京を十数年にわたり東京での生活費や研究費の援助を行いました。慶之助と神田左京との関係については、当館会員である、清永孝氏の文章に詳しく述べられています。

 編集後記


 今年の夏は全国的に記録的な暑い夏で、当館の諸作業も遅れがちでした。これが自然のリズムの小さなユラギなのか地球温暖化のうねりのひとつなのか判りませんが、ここ数十年に限って言えば日本の気候は確実に温暖化していると思います。そこで考えるのは、気候の変化によって宮入貝が生息していないはずの地域で新たに貝が発生するようなことはないのか、日本住血吸虫の感染はないが局所的に貝の生息が確認されている地域で増殖が進むようなことはないのか、心配です。
また、グローバル化により世界のあらゆる所から観光客などが来日していますが、日本住血吸虫症についての防疫体制があるとは聞いたことがありません。世界各地には広大な有病地帯が今も存在しています。 ノバルティス地域医療賞を受賞された林先生のような専門家の存在が今後も尊重されるとともに、新しい感染症の時代に対応した監視体制が必要ではないかと考えるこの頃です。