(抜粋)

宮入慶之助記念館だより      2号

   宮入慶之助記念館 2002(平成14)年 11月30日発行

 名誉館長をお引き受けして            多田 功(九州大学名誉教授)


 宮入慶之助記念館の初代館長であられた宮入耕一郎氏に始めてお会いしたのは1991年5月のことでした.師、宮崎一郎先生にご紹介を頂き、長野にお住まいの氏を訪れました.奥様が宮入先生の姪に当たられるということでしたが、長野の地からこのような偉大な学者を出したことを誇りに思い、記念館を作ることを考えていると熱っぽい調子で語られたのが印象的でした.剛毅で筋道の通った話しをされる方で、宮入先生の思い出に始まり、医療、宗教、死の問題などについて談論風発.気がついたときにはビール瓶が卓上に林立していました.酒の好きだった慶之助からですと、次々に注がれるのでした.それで篠ノ井から長野市のホテルに帰りついた私はすっかり酩酊したが、頂いたホワイトホースだけは握り締めていたことを思い出します.
 同年11月に私は熊本大学を離れ、宮入先生のご足跡を基に宮崎先生の創設された九州大学寄生虫学講座へと移動しました.その後、氏とは季節の便りを交換する程度でしたが、ある時ご長男にあたられる源太郎氏(現、記念館事務局長)が、いよいよ記念館を作りたいとご挨拶にみえました.宮入貝標本の入手とか、九大にある宮入先生ご寄贈の図書などの閲覧が目的でした.そこで久留米大学寄生虫学講座の福間教授をご紹介したり、九大の図書館長をご紹介したりしました.ご努力の甲斐あり、記念館は1999年11月に発足しました.開館記念式には作家の小林照幸氏(住血吸虫に関しては「死の貝」を著作)も来られ盛大な会でした.挨拶に立たれた宮入館長は長いひげを震わせ、長年の念願実現の感激と今後の抱負を口にされたことを懐かしく思い出します.
 1999年春、杉岡学長からの依頼で私は九州大学における「寄生虫学の展開と医の文化」という大学博物館記念展示を福岡市美術館で2ヶ月間実施することになりました.そこで企画したのは宮入先生以来の九州大学における寄生虫学者の人脈、そして現代における世界的な寄生虫病の問題展示でありました.源太郎事務局長は何度も福岡に来られ、熱心に展示会を見て記念館の参考にされたり、記録をとられたりしました.夜は大学近くの「わたなべ」で焼酎を飲んでいただき、記念館の今後について語り合いました.残念なことに2001年7月、ご病床にあられた耕一郎館長が逝去されました.幸い源太郎事務局長とご兄弟が結束して、ホームページを作るなど記念館の発展に努力しておられます.
 2000年3月に大学を定年退官した私に、昨年思いがけず源太郎事務局長から、名誉館長を引き受けてほしいというお申し出があり、因縁を考えお引き受けしました.
 今、世界的に各種の寄生虫病(フィラリア、オンコセルカ、シャーガス病など)防圧が展開されています.しかし宮入慶之助先生がその生活史を解明された住血吸虫病の根絶はまだ困難です.世界中に2億人の感染者が苦しんでいます.現代世界の大きなマイナス要因である寄生虫病を理解していただく上で、宮入慶之助記念館の果たす役割は大きいと考えられています.

多田 功氏略歴
 1936(昭和11)年旧満州国に生まれる。
 1961(昭和36)年九州大学医学部医学科卒業。
 九州大学助手、鹿児島大学助教授、金沢医科大学教授、熊本大学教授を経て、1991(平成3)年九州大学教授。宮入慶之助の流れを汲む寄生虫学講座に勤務。2000(平成12)年退官。九州大学名誉教授。医学博士。

   《宮入慶之助記念館その後の活動》

 林 正高氏(甲府市立病院)来館

 林 正高(甲府市立病院)氏が当記念館に2回来館され、多くの資料と貴重な助言を頂きました。同氏は、山梨県における日本住血吸虫症に関する長年の経験をフィリッピンにも活かし、活躍されています。特に日本住血吸虫に罹患したことが原因で発症する脳症を解明しました。これらについては2000年1月に発行された「寄生虫との百年戦争」に詳述されています。また、「地方病に挑む会」を組織し、開発途上国でいまなお住血吸虫症に苦しむ患者達の命を守り、この病気を根絶するために努力しておられます。
 お忙しい中を二度もおいでになり、各国産のミヤイリガイの標本、「地方病とのたたかい」(1977年版、山梨県発行)、住血吸虫などの写真類等々を寄贈いただきました。厚くお礼申し上げます。
 ミヤイリガイについては、山梨、久留米産といった国内のものは、いわゆる米粒大ですが、フィリッピン産の貝はとても小さく、胡麻ぐらいの大きさしかないのが印象的です。当記念館にお出かけの節は、ミヤイリガイの実物を是非ご覧ください。
主な寄贈品
1.      ミヤイリガイ標本(獨協医科大学熱帯病・寄生虫学教室 松田肇氏協力)
  日本産(甲府、木更津)、中国産(湖南省、湖北省)、フィリッピン産(レイテ島)、カンボジア産(クラチェ省)。
2.      書籍
  山梨県地方病撲滅協力会;日本住血吸虫病・医療編,1981(山梨県知事署名入り)
  片淵秀雄;佐賀県の日本住血吸虫病研究,1955
  伊藤二郎;STUDIES ON THE FRESH WATER CERCARIAE IN LEYTE ISLAND,PHILIPPINES英文論文集,1977(著者署名入り) 
  BAYANI L.BLASHANDBOOK FOR THE CONTROL OF SCHISTOSOMIASIS JAPONICA,1988(著者署名入り)
3. 写真
  日本住血吸虫卵,日本住血吸虫幼虫(セルカリア),日本住血吸虫成虫(筑波大学 安羅岡一男氏協力)
  日本住血吸虫症の肝臓超音波写真/同頭部CT写真/同脳組織写真(林正高氏所蔵写真)
  レイテ島でのミヤイリガイ生息状況写真(フィリピン厚生省住血吸虫局 Bayani氏協力)
  レイテ島でのミヤイリガイ採貝写真(同)

 その後の収集資料

 その後収集された諸資料の中で、宮入慶之助の訳・著作物をご紹介いたします.
「生理学講義」新訂7版1~4 半田屋医籍商店(明治41)
「寄生虫病及地方病予防」内務省衛生局(大正10)複写 国会図書館蔵
「寄生虫病に就いて」山口県警察部(大正10)複写  同
「保健衛生の調査に就いて」福岡県衛生課(大正13)複写  同
小学児童生理衛生の栞」黎明社(大正15)複写  同
「日本人の栄養のために」教学局(昭和14)
「栄養上必須の最新知識-ドイツの生活改善運動-菊竹金文堂福岡支店(昭和16)

 祖父宮入慶之助の想い出               山本 博達 

 慶之助祖父の想い出といっても、私との年齢差が60歳もあることから、記憶に残るものは数えるほどしかないのですが、その中から2つを取り上げてみます
 ひとつは昭和13年7月のことです。この時は大雨で阪神地方のあちこちで橋が壊れ、道路も寸断されて大変な被害が出たのですが、私達は満州(父の勤務地)に住んでいたから、直接関係はなかったのですが、丁度、小学校が休みで母(慶之助の次女)と内地(日本)に帰っていて、たまたま祖父(当時73歳位)が京都見物に連れて行ってくれると約束が出来ていたことから、北九州(父の郷里)を発って京都に向かい,この災事に逢う破目になってしまったのです。しかし、祖父とは無事京都で落ち合い、市内見物をすることができました。
 はっきり覚えているのは清水寺に行ったことですが、茶わん坂の参道の途中で赤い絨毯(?)を敷き詰めた茶店の椅子に腰掛けて串団子を食べたことです。年のころ12~3歳の小学生で、満州という辺境の地から初めて日本の古都を訪ねたときの印象は子供心にも忘れがたい記憶で強く残っています。祖父の娘と孫に対する心遣いが強く感じられた想い出です。
 その見物のあと、練馬の豊島園の祖父宅まで一緒に同行しました。当時は今と違って家の近辺はとても静かな田園風景が広がってみられ庭には蜩(ひぐらし)の声が「かなかな」と聞こえ、遠くから武蔵野鉄道(今の西武池袋線)の警笛が優しくも物悲しく聞こえてくるのが今も耳に焼き付いています。「中村橋あたりを走っている電車からの音だよ。」と祖母から教えてもらった記憶があります。広い屋敷の奥まった書斎で祖父は一人、終日黙々と勉強に余念がなかったようで、食事以外には殆ど居間に姿を見せることは無かった気がします。女子供の相手をするということはあまりなかったのではないでしょうか。母から祖父との会話に関しての想い出を聞くことは殆どありませんでした。
 学者はとかく家庭的でない人が多いと聞きますが、祖父も例外ではなかった気がします。団欒と研究とはなかなか両立出来なかったのでしょうか。
 今をさる60年以上も昔のささやかな祖父の想い出です。

 記念館の一部改装   ―2002年7月―

 諸資料の収集がすすみ、手狭になっていた記念館の展示スペースを増やすために内部の一部改装を行いました。押入・床の間計5カ所の内装を張り替え、ガラス戸と照明器具を取り付けて展示スペースとしました。合計で約8平方メートルの増設となり、展示室全体も雰囲気が一新しました。
 工事を請けていただいた業者の方々は、記念館の趣旨をご理解下さり、面倒な工事でしたが、心を込めた丁寧な仕事をしてくださいました。
 おかげさまで、その後収集された宮入慶之助の諸著作物、住血吸虫・寄生虫等に関連する多数の資料が、常時展示可能となりました。
 今後は展示物の系統化や陳列方法や説明の改良をすすめていく予定です。
 この工事と同時に、老朽化した屋内電気配線の取り替えや電気系統の一部変更の工事を行いました。 

 記念館の資料収集に携わって             研究員 宮入錦次郎

 宮入慶之助記念館の開館に向けては、源太郎事務局長と研究員達が、慶之助ゆかりの地(地元)や、九州大学・久留米大学、甲府地方などを中心に関連資料・文献などの収集を実施してきました。あわせて、各地の古書店を訪問し、関連図書の入手を実施するとともに、耕一郎館長を先頭に、施設の準備もすすめ、ようやく記念館開館にこぎつけました。
 開館後は、図書館関係での収集を強化する活動もはじめました。開館当時、私はまだ現役サラリーマンで、半導体機器のサービス統括責任者としてユーザーへの対応で、24時間超多忙のため、前述の文献などの収集活動に参加できず残念な思いをしていました。その後、現役退職を機に図書館関係の文献収集活動を開始しました。
 手始めに、地元の立川市立図書館、東京都立多摩図書館に出向いて文献あさりをはじめてみました。各図書館とも、コンピュータ検索システムをとっているので、大昔のようなカードを調べる手間が省ける便利さに感謝しつつ検索したところ、立川市立図書館1件、東京都立図書館に11件の蔵書のあることが判明し、いまさらながら図書館の威力に改めて感心した次第です。
 この好結果に味をしめて、次は国会図書館に出向いて調査してみました。宮入慶之助、宮入貝、日本住血吸虫、日本住血吸虫病(症)等をキーワードに検索したところ、図書34件、雑誌記事40件の文献検索が出来て、あるところにはあるものだと感心しました。2002年はじめには多くの図書のコピーを記念館に保管できました。全複写となるものについては、「著作権法に抵触する可能性があるので出来ない。」との係員の指摘には、人名辞典の宮入慶之助の部分をコピーして提示し、50年を経過しているので問題ないと証明して、ようやく複写許可をいただいたことが今では懐かしい思い出です。
 当記念館としては、貴重な資料がかなり見つかったことはまことに幸運でした。今後は、雑誌記事調査、過去の日本住血吸虫汚染地への訪問などでさらに関連資料の収集・充実をはかりたいと思っています。情報・アイデアございましたらぜひご一報ください。