(抜粋)

宮入慶之助記念館だより   7号

宮入慶之助記念館     2007(平成19)年 6月29日発行


巻頭言  歴史に学びつつ問題提起を   宮入慶之助記念館名誉館長 多田 功


 第2次世界大戦が終わって既に60年余り経過しました.わが国の首相も戦後生まれとなっています.戦後の占領軍主導の憲法を改正する論議も進んでいます.書店の書棚を見ても、日本現代史を検証する書物が多いことに気づきます.戦前生まれにとってはトラウマを脱して、また戦後生まれの人にとっては改めて歴史のエビデンスを学び、日本の進むべき姿を考える時期といえましょう.
 宮入記念館は設立からはや8年になろうとしています.基本展示の開始と宮入慶之助の事跡記念誌発刊という初期事業が達成された今、今後の大方針を確立する時期に来ています.現在、館長を中心にNPO法人化を目指しています.宮入慶之助の事跡展示から脱却して、社会や地域社会にとって有意義な活動を企画しています.宮入慶之助はドイツで細菌学を学んだ後、当時の日本人の栄養状態劣悪の原因は寄生虫にありとして、寄生虫学研究を志しました.九州帝大に赴任されて、当時世界的にまったく不明であった住血吸虫の感染経路を解明されたのです.思えば寄生虫の感染というものは自然環境の問題であり、現在人類が直面している地球温暖化とか、水質、動植物相などを離れて考えることは出来ません.今後当記念館は寄生虫の問題をきっかけに、自然環境と社会のあるべき姿を再考するような企画を立てて活動して行きたいと考えています.このためには生物学、寄生虫学、衛生昆虫学、熱帯医学などの学会関係者のご協力を求めながら、地域社会の中で問題提起が出来る記念館として発展をしたいと思っています.各位のご協力を心からお願いいたします.

次の展開へーミヤイリガイ発見100年記念を目指すー
           館長よりお願い       宮入慶之助記念館館長 宮入源太郎


 2005年末の記念誌発刊以降の当館の展開について検討してきましたが、次なる目標を1913年の宮入慶之助と鈴木稔による中間宿主カイ発見から100年後の2013年(平成25年)にカイ発見100周年を祝うことを目指したいと思います。
 それまで、当館を着実に存続・発展させていきたいと思います。
 このための施策として次のようにすすめることとしましたので、皆様の絶大なるご支援をお願いいたします。
 1.当館をより社会的な存在とし社会に貢献できるようにするために、本年中に特定非営利活動法人(NPO)の法人格を取得する。
 2.当館の活動と運営を次のように組織化し、当館の活動趣旨に賛同してボランティアとして活動に参加していただける人材を募集する。
(1)企画グループ  当館の事業を具体的に計画し推進する。
(2)展示グループ  来館者を案内し説明する。同時に展示の整備・改善をする。
(3)広報グループ  当館の宣伝活動をする。「記念館だより」などの広報誌を作成し配布する。
(4)運営グループ  当館の財務会計を処理する。建物内外の美化・修繕をする。
(5)調査・研究グループ  当館の資料の調査・研究をする。新たな資料の収集をする。当館の一員として、自らの経験と能力を生かし、当館の活動を通じて社会貢献をしていただける方の積極的なご参加をお待ちいたします。
 ご都合のつく時間に、当館またはご自宅で上記のいずれか又は複数の活動に参加いただける方の館長へのご連絡をお待ちしております。

Dictionary of Medical Biography(医師人物事典)へ掲載さる。 



 本年1月に米国Green Wood社より発刊された、Dictionary of Medical Biography(「医師人物事典」全5巻)に、宮入慶之助が掲載されました。宮入慶之助の項は、永島剛氏(専修大学経済学部講師)が担当し、永島氏からは、関連資料をいただきました。 「この事典は、20071月の出版で、総編集Bynum氏の依頼を受けて、日本の医師のエントリーに関するエデイターは慶応大学の鈴木晃仁教授(医学史)がまとめられました。国際的な意味を持つ業績を残した医学史の偉人という観点から項目の選定がされたものです。」(永島氏による)
 永島氏は、「疾病情報と近代衛生行政」(文部科学省学術創成研究:暦象オーサリング・ツールによる危機管理研究)という研究論文をまとめ、アジア社会医療史研究会のメンバーとして活躍されています。また、20068月には、当記念館を訪問されています。

記念館収蔵品から


写真は、日本住血吸虫の標本で、スライドグラスに固定されたものです。
 雌は2025mmぐらい、雄は雌よりすこし短く太いといわれます。
 雄が雌を抱き込む形で、哺乳動物の血管内で生活し、大量の卵を産み続けます。
 記念館への来館者は、拡大鏡を通じてこの小さな虫をながめ、悲惨な病気を引き起こすはなしに驚きます。
 この標本は、九州大学医学部寄生虫学教室のご厚意によるものです。

76回日本寄生虫学会大会    2007.3.2930 於:大阪大学コンベンションセンター


 標記の大会が開催されました。
 館長(宮入源太郎)が出席・聴講しました。
 懇親会の席で、記念誌の出版に際してご協力いただいた執筆者のかたがたに直接お会いして、記念館と記念誌編纂委員会としてお礼を申し上げました。
古小烏 宮入慶之助先生旧宅付近を訪ねて     佐伯仁子(佐伯医院院長夫人) 

 平成1811月中旬、約64年ぶりで古小烏(フルコガラス)の坂道を色々なことを思い出しながら訪ねました。古小烏バス停より曲がり角の二軒は当時のままの家でしたが、福岡に居りながら64年ぶりに訪れた古小烏は随分変わってしまい、西鉄城南線もなくなり、市内電車にかわりバスが走って居ります。古小烏動物園前のバス停より北に向かって入り、一番はじめの角を曲がり登り坂を訪ね歩きました。64年前の思い出はなかなかはっきりせず、同じ道を反対の方向からのぼってみたり致しました。
 当時、自転車で先生のお宅に大湊公園横の私宅から自転車で十五分程の先生のお宅に父の使いで訪ねるのが私の手伝いの一つでございました。宮入先生が九州大学医学部衛生学教室の教授でいらした大正十二年頃、私の父が先生の教室員として教えをうけてからのご縁でございました。
 石垣のあるお家で、南向きに玄関があり、坂道の中程でございました。すでに家は建て変わっておりましたが。歩いておりますと、このあたりだと懐かしさを感じました。余りに長い年月で自分勝手な思い出とも考えられ、現実と思い出はなかなか一緒にならぬことをしみじみと思い知らされる一時で、過ぎた月日に自分の年齢を重ねております。父の恩師、宮入先生のお姿を思い浮かべて居ります。
 伺いまして玄関でお使いの物を奥様にお預かりいただき、帰ります折りには必ず玄関にお出ましになり、いつもキチンと袴をお召しになり、どの様に暑い折りでも麻の着物に袴を着けて「ご苦労様、有難う」と必ずお声をかけて頂き、私は益々キンチョウして御挨拶を申し上げ家路について居りました。今こうして文章を書いて居りましても、凛としてお立ちになっておられた先生のお顔がはっきりと思い出され、奥様のお姿もまた、懐かしく思い出されます。
 ご令息様、若い奥様、お小さいお孫様(男のお子様)もご一緒にお住まいでした様な記憶が致して居ります。
 また、父が先生から葉書を頂きました折には、とても嬉しそうに先生からの葉書を読んでおりました様子が又なつかしく思い出されます。いつも先生の教室で勉強させていただきましたことが医者としての基礎になったと話しておりました事など、古小烏の坂道を訪ねて思い出され、何度も坂道を行き来してなつかしく、私は宮入先生にお会い出来、声をかけていただけました幸せを思い出して居ります。
 今年、宮入先生のご本を拝見し、先生の記念館をお訪ねすることができました。このめぐり合わせに感激をあらたにいたしております。
 同門の五斗先生、原先生のお姿も父と共に浮かび、懐かしさも一層でございます。
 年を重ね思い出はなかなかあやふやで自分流の言葉と思いながら、こうしてまた、宮入先生とのご縁ができましたことを父も喜んで居りますと信じ筆をおきます。

 慶之助祖父の思い出                     宮入聰一郎


 記念館だより第2号で、山本博達様が123歳頃(昭和13年頃)体験した祖父の想い出を綴られていましたが、私は昭和17年生まれで、祖父が昭和214月に逝去しましたので34歳頃の想い出しかなく、それも不確かではありますが、父母から聞いたことも交えて記憶を蘇らせてみました。
 祖父母は昭和17年頃迄には東京・練馬から福岡に戻って市内の古子烏町(フルコガラスマチ、現在警固3丁目)の自宅に住んでいましたが、戦争末期には、米軍の焼夷弾が庭にも落ち、風呂場が焼けかけた事態となったことや、高齢でもあり危険回避のために自宅を二束三文で売却後、故郷の長野などに疎開しましたが、最後は福岡に戻りました。
 自宅がない状態で終戦を迎えたものの、祖父の医学での高名を知っていた九州大学出身で熱心なクリスチャンであった眞島直行氏の特別なご厚意もあり、福岡市西新町(ニシジンマチ、現西新3丁目)の大きくて立派な邸宅の離れの広間他を貸していただき、そこで祖父は80歳で他界しました。
 晩年の祖父は敗戦のショックや、それまでの疲労、など体力消耗から病床に伏しており、床ずれもしていたので痛々しかったことや、祖母ナヲが時々、ガラス製の差し飲みで大好きなお酒を少しずつ飲ませるというより、口に湿らせていた様子の記憶がありますが、山本博達様が綴られた思い出のような、立派で元気な祖父ではなかったことが、今にすれば残念であります。
 祖母ナヲが乾物缶に入った白い粉をふいたドンコ椎茸のような形の長野産の乾燥あんずを、私におやつとして時々呉れましたが、甘いお菓子など戦後の物がなかった時代とは言えそれは固くて甘酸っぱいもので決しておいしいものではありませんでした。又、前述しました疎開前の古小烏町で生まれた12歳頃の私を、それまで子供と遊んだり、だっこなどを殆んどしなかったという祖父が正座で火鉢にあたり、祖母のひざの上にのった孫を優しくみつめている写真があります。勿論私には記憶がありませんが、やはり孫は可愛いかったのだろうと、後日、父母が私に語ったことを思い出します。

 長生不老研究録 第6輯 (最近の収集品から)          宮入建三     


 最近収集された、慶之助の著作をご紹介いたします。
 「長生不老研究録 第6輯」
 この冊子は、発行年代、発行所等が、現在のところ全く不明です。
 「衛生学上より観たる長生不老法」医学博士 宮入慶之助、「児科学上より観たる長生不老法」医学士 眞島隆輔、「本草学より観たる不老長生法」理学博士 白井光太郎
 という三つの論文を綴じ合わせたものです。なんらかの雑誌に掲載されたものを抜き出して自分で製本したもののようです。
 長生不老研究録という雑誌のようなものが発行されていたのでしょうか。
 「衛生学上より観たる長生不老法」は、4回にわたって連載されたもので、総ページ数は、B-5版で54ページです。本文に自分が56歳としていますので、1921(大正10)年頃の慶之助の著作と考えられます。
 慶之助は、1913(大正2)年にはミヤイリガイを発見し、九州帝国大学教授としてその活躍は、国内外に知れ渡っていた時期で、内務省の保健衛生調査会委員に任命され(大正5年)、学術会議会員にも選ばれ(大正9年)、「宮入衛生問答」などの著述に取りかかっている頃です。なお、健康法についての慶之助の著作は、「新編養生訓」が、1906(明治39)年に発行され、米国の実業家フレッチャーの咀嚼健康法を紹介した「食べ方問題」は1923(大正12)年に発行されました。
 読者の方々の中に、この雑誌について、あるいは関連する情報をお持ちの方は、お知らせ下さい。

 編集後記


    生前の宮入慶之助の思い出をお二人の関係者から寄稿いただきました。
  お礼申し上げます。
○宮入慶之助記念館も、1999年の開館以来、宮入慶之助に関係する諸資料を収集・整理し展示する一方、記念館だより(年2回)発行、記念誌「住血吸虫症と宮入慶之助」を発刊(200511月)するなどの活動を展開して参りました。この間、衛生学、寄生虫学における宮入慶之助を、多少とも現代社会の中で再認識していただくことが出来たのではないかと思っております。
 昨年(20067月)、当記念館の企画検討会が開催され、当館の存在意義、役割、今後の活動方向について検討を加え、その後の検討の中から、特定非営利活動法人(NPO法人)の法人格取得にむけて進んだらどうかと云うことになりました。
 もとより、皆様のご支援が必要不可欠です。
 今後ともよろしくお願い致します。