山梨県は、日本住血吸虫病の流行地として知られていました。この地方では「地方病」と呼んで古くから恐れられ、地方病の流行地に嫁に行くときは、死を覚悟したとまで言い伝えられる程、悲惨な状況でした。この病気が日本住血吸虫によるものであると証明されるまでには、山梨県の先人達が重要な役割を果たしました。
暴れ川の釜無川の流域は、広大な湿地帯を形成し、気候も比較的ミヤイリガイの棲息に適していたのか、その生息地は甲府盆地一帯の1市58ケ町村、約一万町歩に及び、流域の沼沢地には、ミヤイリガイが大変な勢いで繁殖していました。従って日本住血吸虫病(地方病)も多く、場所によっては、感染率が全児童の44.8%(1965年)に達する地区もあり、その恐怖は、想像を絶するものだったと伝えられています。
1996年(平成8年)2月、地方病撲滅対策促進委員会(会長=刑部源太郎 県医師会長)は、当時日本国内では、山梨県だけに残っていた、日本住血吸虫病について、「地方病の流行は終息し、安全と考えられる。」という報告書を天野県知事に提出しました。山梨県はこれを受けて「山梨県における地方病の流行が終息したことを宣言する。」と、「流行終息宣言」を出しました。
住民を苦しめてきた地方病の対策に乗り出したのが、明治14年だったことからすると、対策から115年を経てやっと「流行終息宣言」にこぎ着けたことになります。
山梨県の場合、安全宣言ではなく、終息宣言としたのは日本住血吸虫の中間宿主ミヤイリガイが棲息していることでした。
・新たな発症者が、1979年(昭和54年)から発生していないこと。
・感染したミヤイリガイが発見されていないこと。
などが終息宣言の根拠です。
2000年(平成12年)9月、旧流行地(旭町付近)に調査に行った際に撮影したのが下の写真です。右上にイナゴが写っています。大きさはこれと比較してください。田圃の水が引きつつあるコンクリート堰の表面に、褐色で小さな米粒様の小巻き貝(ミヤイリガイ)が結構沢山確認出来ました。近くで稲の刈り入れをしていた老夫婦は、「安全宣言はでているけど、やっぱりちょっと不安だはな~。」とおっしゃっていました。
ミヤイリガイは、たとえ沢山棲息していても、感染貝でないかぎり安全です。新感染者の早期発見、海外からの来訪者や日本人の海外渡航者による感染源持ち込みなどが今後の問題です。
現在、山梨県はミヤイリガイ生息調査、感染源調査、住民健診、医療従事者向けマニュアルの作成(写真)、地方病に関する正しい知識の普及を行って、監視事業を継続しています。