⑤ 京都府医学校時代

〇明治期の医学事情

明治維新以来、日本では西洋医学の普及が急務とされ、医学教育者・軍医・地方衛生指導者の育成が喫緊の課題でした。明治10年(1877)に東京大学医学部が創設され、医学部本科卒業生(医学士)は留学も経験し、多くの東大の教員が輩出されました。明治32年(1899)に京都帝国大学医科大学が設置されるまで東京大学医学部は唯一の医学士の養成機関と供給源でした。

各府県においても明治初期から頻発するコレラ・赤痢・腸チフス・天然痘などの急性伝染病の対策が急務とされ、診療・公衆衛生・医学教育の拠点として公立病院兼医学校が急速に普及していきました。この府県立病院兼医学校に東京大学医学部の卒業生が病院長・医学校長として破格の待遇で招聘されました。

明治15年(1882)には医学校通則(文部省達第4号)が公布され、府県立医学校の卒業生が無試験で開業可能な甲種医学校と認定されるには、臨床実験用附属病院の設置(第三条)、4年以上の修学年限の設定(第五条)、最低3名の医学士登用(第十条)などの条件が課されることになり、さらに明治20年(1887)には府県立医学校の費用を地方税から支弁することを禁止する勅令第48号が公布されました。

こうした明治政府の西洋医学を急速に普及させる国家統制の医学教育政策により文部大臣管理下の高等中学校医学部(千葉・仙台・岡山・金沢・長崎)の医学校が設置され存続する一方、愛知・京都・大阪以外の府県立医学校は廃校、私立医学校も多くが廃校となりました。この結果、医学士は大学・軍・府県立病院兼医学校・高等中学校医学部に吸収されることとなりました。

東京大学医学部でのエリート教育に対して、明治初期から外国人教員による医学教育を府県レベルで実現していたのは居留地を除けば、愛知・石川・静岡・岡山・京都で、京都は西洋医学摂取への意欲という点では先進的な地域でした。

〇京都府医学校の設立

京都における近代医療と近代医学教育は明治5年(1872)11月1日に愛宕郡粟田口村(現京都市東山 区)の天台宗青蓮院内に京都療病院が開設されたことに始まります。ドイツ人医師らによる診療と医学教育が行われ、明治12年(1879)4月には京都療病院医学校(4年制)を付設、明治14年(1881)7月には京都療病院医学校から独立して京都府医学校(5年制、最初の1年は予科)を設置、明治36年(1903)6月には専門学校令による京都府医学校が京都府立医学専門学校(4年制)に改称、大正10年(1921)10月に大学令による京都府立医科大学(7年制)となり、昭和27年(1952)4月に新制京都府立医科大学(4年制)、昭和30年(1955)4月に6年制京都府立医科大学となり現在に至っています。

 

〇慶之助の京都府医学校赴任

慶之助は明治24年(1891)9月27日付で京都府医学校に教諭として赴任します。生理学を担当していた栗生光謙教諭が退職したため、代わりに着任したものです。
慶之助は明治23年(1890)10月に帝国大学医科大学を卒業し、緒方正規教授の衛生学教室助手を努めていました。助手として1年ほど勤めたところで京都に行くことになった理由ははっきりとはわかりませんが、まずは医科大学を通じての友人・先輩との関係性が浮かび上がるところです。
慶之助と同じく帝国大学医科大学で助手をしていた加門桂太郎が京都府医学校に解剖学の教諭として赴任したのが明治24年(1891)2月でした。加門桂太郎は慶之助と同じ明治23年(1890)の卒業です。またこの時の京都府医学校長が猪子止戈之助で明治15年(1882)に卒業、同年5月から京都府医学校外科学の教諭として着任していました。この加門桂太郎と猪子止戈之助との人脈と衛生学の専門教官という要素が相俟って慶之助が京都に行くことになったのでないかと推測しています。
京都府医学校では、物理学・化学・動物学・植物学・解剖学・組織学・生理学・病理学・薬物学・内科・外科・眼科・産科・内科臨床講義・外科臨床講義・衛生学・裁判医学などの学科目が設置され、慶之助は衛生学と生理学の科目を担当します。

 

〇京都府医学会への入会

着任した翌月には、京都府医学会に入会し、翌年3月には評議員に推挙されます。医学会例会は月に3回あり、慶之助は「虎列拉黴菌培養法ニ就テ」、「實布垤里ノ原因ニ関スル新報告ニ就テ」、「睡眠細胞ニ就テ」、「癩病ノ菌」等の講演、京都府医学会雑誌への寄稿など精力的に活動しています。

 

〇医学校時代の慶之助

京都府医学校に着任したころのことを「当時私は大学を卒業した一年後で、京都の医学校に勤めて居ました。思い出します。生理学の講義を担当いたし、前任者の後を受けて、ヘルムホルツが専ら力を入れた部分の五器官の整理の講釈を始め、第一の日に学生諸君から、ひどい非難の足ぶみをドドドドと鳴らされました。学生諸君はその私を、よく辛抱してくださいました。私も亦、よくもそれを辛抱致しました。」と回想しています(「『ヘルムホルツ』の翻訳と私」河出書房 昭和18年2月)。

 

〇京都府医学校での講義

当館には、慶之助が京都府医学校時代に講義した医学生の受講ノートが収蔵されています。京都府出身の高橋隆三の「生理学」ノート(和綴じ本2冊乾・坤)、奥村一郎の「生理学」ノートと「皮膚病梅毒学」ノートの3点です。奥村ノートが明治25年(1892)から明治26年(1893)に行われた講義受講ノート、高橋ノートが明治26年(1893)から明治27年(1894)に行われた講義受講ノートでそれぞれのノートを見ると講義年次が異なるためか、必ずしも同じ講義内容ではないことが伺われます。高橋ノートにある五官器論の項では、第一知覚神・第二味神・第三嗅神・第四聴神・第五視神とあり、奥村ノートには五官機篇として、視神・聴官・味神・嗅神・觸神と筆記されています(註:神とは神経のこと)。また慶之助は「生理学」以外にも、「皮膚病梅毒学」の講義も行っていたことがわかります。

 

〇医学生の回想

この当時医学生だった角田隆(明治25年入学・明治29年卒業)の回想(昭和28年9月学長公室にて・『京都府立医科大学八十年史』より)によると、「当時の医学教育と云うものは、難しい理論は二の次であり、西洋医学を普及させるために速成主義に一貫されていた。・・・・宮入氏がクルンドの中心人物であり、それに反して加門氏(註:解剖学担当教諭)はお人好しであった。・・・ともかくあの頃は、大学校を卒業すると直ぐに赴任したのであるから、独学せずにはやれなかった。・・・入学後は半期に一回の学期試験でも半年分の範囲を、学年試験で一年分の範囲を試験された、宮入先生だけが口頭試問を行い、他は筆記試験である。」(註:クルンド―世間的にしきたりにやかましい人のこと)
慶之助は京都府医学校着任の翌年に大分県の葛城義方長女志ゅんと結婚し、明治27年(1894)5月15日付で京都府医学校を退職し、この後帝国大学大学院に入学します。

 

 

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