慶之助の父敬長は、天保2年(1831)の生まれで、幕末には松代藩会計官出納司として石高十石を与えられていました。慶之助は父敬長と天保7年生まれ(1836)の母りうの三男として、慶応元年(1865)5月15日に更級郡西寺尾村に生まれました。父敬長は学問への関心が高く、自ら塾を開いて村の子どもたちに教え、佐久間象山とも交際があったといわれています。
慶之助生家の屋敷配置図が残っています。明治23年1月に墨書された屋敷図で本屋(母屋)は屑葺で、背後に瓦葺の土蔵が左右に配置されている図です。現在この生家跡は更地で残存しており、案内看板が2022年3月に設置されています。
幼少の頃の慶之助は、野山を多くの友達と遊びまわり、友達をとても大切にする利発で思いやりのある子どもだったと伝えられています。父の影響でもともと学問好きで、時折父を訪ねてくる佐久間象山の進取の気風に満ちた新鮮な話に耳を傾け、学問への強い憧れを抱く少年だったようです。
その頃、甲府盆地を中心に奇妙な風土病が流行していることを聞き、早くも慶之助少年に原因を究明したいという思いが芽生え、医学を志すことを決意したようです。地元の小学校、上田の中学校を経て、明治13年春に父敬長の許しを得て上京します。