農村医学と回虫

第二次世界大戦の戦局も逼迫した1945年(昭和20年)3月、長野県の山奥の小海線三反田駅(今の臼田駅)に、若月俊一先生が降り立ちました。
千曲川のほとりの四方を山にかこまれた小さな農協病院に赴任した若月先生は、医療とは無縁の状況におかれていた当時の農村で、おそるべき不衛生、貧困と闘いながら、農民と共にあゆむ地域医療の実践を始めました。それから半世紀以上。「農村医学」は、めざましく発展しましたが、初期の農村医療の中で寄生虫問題は、とても大きな課題でした。
当時は人糞を下肥として、直接畑に撒いて貴重な有機肥料としていました。寄生虫に罹っている人がいれば、その仔虫が野菜につき、その野菜を食べればまた罹患者が増えるという状態でした。従って、回虫卵保有者は50%を越えていました。
55歳以上の年代の人には経験があると思いますが、寄生虫卵検査のために、マッチ箱に便を採って学校に持って行く、「検便」という言葉は今では懐かしい言葉です。もちろん、「カイジンソウ(=海仁草)」という駆虫薬の特有の臭いと味を記憶している人も少なくないと思います。口から回虫が出てきたり、腹痛のときは「寄生虫のせいでは?」などと疑ったものだそうです。
胆嚢に回虫が迷入して、胆石症(胆虫症)になる話など、『村で病気とたたかう』という本には、農村医療の当時の様子が記載されています。

若月俊一先生は、名著『村で病気とたたかう』(岩波新書 1971年)のなかで、

-回虫退治-(113ページ~)
「かっては農村に回虫が多かった。特に私がこの病院に赴任してきた終戦前後はひどかった。腹痛を訴えて来た患者の検便の結果は、回虫卵70%、十二指腸虫卵12%、鞭虫卵10%という高率だったものである。その頃、私どもが村に出ていってしらべた実態調査の結果によると、回虫を排出したことのある人は農家も非農家も含めて30%、とくに山間部では38%もあった。終戦直後はとくにサントニンが手に入らなくて「虫下し」がかけられなかった。また、化学肥料が足りないために、「下肥え」(人糞)をさかんに使ったと言うこともあったろうが、なんといっても一般的に生活が不潔だったということが根本的な要因ではなかったろうか。盲腸などの開腹手術をすると、腸の中に虫がたくさん入っていて、ちょうどうどんの玉のようにとぐろをまいているのを腸の上から見たりさわったりできたものである。盲腸の中にも入りこんでいて、盲腸を切ると、いっしょに虫体を切断したというようなこともしばしばあった。盲腸が穿孔したための腹膜炎の膿の中に、回虫が泳いでいたこともある。」(略)
-胆石ならぬ胆虫の話-(114ページ~)
「佐久へきて農民に胆石が多いのに気がついた。初めこれがどうもふにおちなかった。というのは、私などが大学で教わった西洋医学では(とくに私の学位論文は胆石に関するものだった。)、胆石の原因は、主としてコレステリンで、従ってこれは動物性脂肪を多く食べる人に起こりやすいわけである。ところが、この地方の農民は動物性脂肪なんかあまり摂るとは思えない。(中略)そんな生活の農民に胆石が多いのは一体どういうわけであろう。土地の言葉によると、胆石の発作のことを「胃けいれん」という。またこの胃けいれん発作をくりかえすことを「しゃく」という。いわゆる「持病のしゃく」である。(中略)さて、そのような「持病のしゃく」患者を手術してみておどろいた。胆嚢や胆管の中から出てきたのは、ほとんど石ではなく虫だった。回虫なのである。胆道の中に七匹つまっていたこともあった。これをとりだすと、胆石症状は、忘れたように治ってしまう。(以下略)」

 

若月俊一『村で病気とたたかう』(岩波新書 1971年)

 

 

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