1865年 | 慶応元年 | 5月15日(新暦6月8日)、信濃国更級郡西寺尾村(現長野市松代町西寺尾)に宮入敬長とリウの三男として生まれる。 |
1873年 | 明治6年 | 西寺尾村の稽徴学校に入学。 |
1874年 | 明治7年 | 西寺尾村の西寺尾学校に移る。 |
1879年 | 明治12年 | 上田変則中学校に入学する。 |
1880年 | 明治13年 | 東京大学医学部医学予備門五等乙に入学する。 |
1885年 | 明治18年 | 帝国大学医学部医学本科五等に入学する。 |
1890年 | 明治23年 | 帝国大学医科大学医学本科を卒業する。 緒方正規教授の衛生学教室助手となる。 |
1891年 | 明治24年 | 京都府医学校教諭(生理学・衛生学)に任ぜられる。 |
1894年 | 明治27年 | 京都府医学校教諭を退職し、帝国大学大学院に入学する。 大学院在籍のころ、眼科医を開業する。 |
1895年 | 明治28年 | 第一高等学校医学部(現千葉大学医学部)の教授に任ぜられる。 |
1898年 | 明治31年 | 内務省衛生局臨時検疫事務官と内務技師兼任を命ぜられる。 |
1899年 | 明治32年 | 足尾鉱毒事件の調査を命じられ、栃木県安蘇郡植野村及び同郡堺村(現佐野市)にて婦人24人の調査を行う。 |
1901年 | 明治34年 | 足尾鉱毒事件関連の川俣事件東京控訴院第16回控訴公判証人尋問において栃木県での調査結果を証言する。 |
1902年 | 明治35年 | 内務省衛生局内務技師を退職。文部省留学生として衛生学研究のためドイツへ留学する(2年間)。 |
1904年 | 明治37年 | ドイツ留学から帰朝し、京都帝国大学福岡医科大学(後に九州帝国大学医学部)の初代衛生学教授に任ぜられる。 |
1905年 | 明治38年 | 京都帝国大学総長推薦により医学博士の学位を授けられる。 |
1912年 | 大正元年 | 九州帝国大学医学部衛生学第一講座担任を命ぜられる。 |
1913年 | 大正2年 | 佐賀県三養基郡基里村酒井地区(現佐賀県鳥栖市酒井東町)にて日本住血吸虫病中間宿主である巻貝(後に「ミヤイリガイ」とされる。)を発見。 |
1919年 | 大正8年 | 文部省令で学術研究のため欧米各国へ出張を命ぜられる(翌年3月まで)。 |
1923年 | 大正12年 | ロックフェラー財団の招請によりアメリカ及びカナダの医学教育を視察。 |
1923年 | 大正12年 | 帝国学士院会員となる。 |
1925年 | 大正14年 | 九州帝国大学退官。同大学名誉教授となる。 |
1926年 | 昭和元年 | ツツガムシ病病原菌の研究調査のため新潟市に出張する。 |
1927年 | 昭和2年 | 英国のブラックロック博士(リバプール熱帯医学研究所長)がノーベル委員会にノーベル賞候補として推薦書を書く。 |
1928年 | 昭和3年 | 正三位勲二等旭日重光章を受ける。 |
1929年 | 昭和4年 | ツツガムシ病研究のため台湾に出張する。 |
1946年 | 昭和21年 | 4月6日死去(満80歳)。 |