④ 東京大学入学・卒業

慶之助は本郷菊坂の独逸学校で7、8か月独逸語を学んだあと、明治13年(1880)12月に東京大学医学部医学予備門(予科)五等乙に入学します。
明治10年(1877)に東京医学校と東京開成学校が合併して東京大学が創立し、医学校は医学部と改称されます。医学部本科は5年制で、予科は明治6、7年度は2年制、8年から3年制、10年度からは予備門の2年が増設されます。予科の5等と4等が予備門で甲、乙に分かれ、各々1年で予備門は各4年の課程となっています。従って、正規には卒業までに予備門4年、予科3年、本科5年の12年を要することとなります。
慶之助は明治13年(1880)12月に予備門(予科)五等乙に入学し、翌年には予備門(予科)四等乙に進級しています(『東京大学医学部一覧明治13‐14年』)。これは予備門(予科)五等において同年度に乙から甲に飛級して翌年に予備門(予科)四等乙に進んだことを意味します。同じく予備門(予科)四等においても乙から甲に飛級して翌年予科三等に進んでいます。
宮入家には、慶之助が明治14年(1881)12月2日(医学部医学予備門四等乙の時)に東京大学医学部に冬学期分の授業料3円を納付した領収書が残っています。半期が3円なので、1年分では6円になります。そのころ医学部本科の授業料は年12円でした。
慶之助は東京大学医学部および帝国大学医科大学の予備門(予科五等・四等)を2年、予科三等から一等を3年、本科を5年の計10年を要して、明治23年(1890)10月に卒業しています。山極勝三郎は慶之助と同じ明治13年(1880)12月に医学部予備門(予科)四等甲に飛級で入学、予備門(予科)四等から予科二等に飛級し、予科3年、本科5年の8年で卒業しています。
慶之助が医学予科一等進級時の明治17年(1884)12月17日に撮影した写真があります。同級生50名ほどが一緒に写っていますが、明治23年(1890)の卒業時には同級生は39名でした。
予備門・予科・本科ともに各学期末の5月と11月の後半に期末試験があり、その成績如何によって進級・留年・退学ということになります。また、医学部予科は明治15年(1882)6月に大学全体としての予備門に合併吸収されます。
大学は冬半期(12月から5月)と夏半期(6月から11月)の2学期制で月曜日から土曜日までの朝7時より12時までの5時限授業が行われていました。予備門(予科五等・四等)では習字や算術、分数などの基礎学習が設定され、予科三等から一等に独逸語学と羅甸語学(ラテン語学)の科目が履修されています。本科では物理学、解剖学、組織学、外科、内科、生理学、眼科学などの基礎医学全般の履修科目が設定され、ドイツ語での講義が行われていました。
慶之助の在学時に在籍したドイツ人教師にはベルツ(内科学・婦人科・病理学・組織学・生理学・薬物学)、ディッセ(医学)、デーダーライン(動植物)、グロート(独逸語)、ランゲ(医学)、ランガールト(製薬化学)、シェンデル(数学・物理)、スクリーバ(外科学)、ヴェルニヒ(内科学・産婦人科学)などがいました。
卒業試験は各人が申請し、各科目の卒業試験に合格次第、各人に證書が授与されます。慶之助は明治23年(1890)10月31日に卒業證書が授与され、「医学士」の称号が授与されています。

 

 

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