明治5年8月3日、明治政府は欧米の教育制度に学び「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめんことを期す」として学制が発布されます。欧米の近代思想に基づく個人主義、実学的考え方を根底にして学校に就学すべきこととした新しい学校設立の意義を説いたものでした。
これを受けて慶之助の生まれた更級郡西寺尾村では杵淵村と東福寺村中沢組とで典厩寺を仮校舎として稽徴(けいちょう)学校が明治6年12月に設立されます。この稽徴学校は千曲川の西側にあったため、川東の児童には通学が困難であったため、翌年4月に西法寺を借りて西寺尾学校が設立されます。この時の生徒数は男子74名、女子41名の115名でした。
慶之助の父敬長は明治維新後には禄を失ったため、自宅で寺子屋を開いて生活の糧を得ていました。慶之助はそうした環境の中で学問への興味関心を増していったようです。慶之助が8歳の時にできた稽徴学校には川を越えてでも勉学に通ったことが推測されます。何分にもこのころの慶之助関係の資料が全くないため、資料的な裏付けができないところです。翌年4月には西寺尾学校ができると当然ながら自宅から近くのこの学校に転校したことと思われます。
小学校は学齢で13歳までを対象としたことから、この後慶之助は上田変則中学校(現上田高校の前身)に行くことになります。上田変則中学校に関する当時の学籍簿とか生徒数などに関わる資料は全く無く、これも資料的に裏付けるものはありませんが、上田に行ったという宮入家での言い伝えだけが論拠です。
上田変則中学校は明治11年6月5日に上田町字鍛冶町月窓寺衆寮に開校します。当時の筑摩県(信濃分が明治9年8月に長野県に統合)では松本変則中学校(第十七番中学変則学校)が明治9年7月に開校しています。上田変則中学校はこれに次いでの開校となります。慶之助は開校した翌年の明治12年に入学したと思われます。
松本変則中学校には、松代町から横田秀雄(後の大審院長、慶之助より3歳年上)が開校とともに入学しています。
長野県制定の「変則中学規則」中の「校則」は、「小学全科卒業ノモノヲ入学セシムルモノトス」とあり、「生徒ハ年齢満十四年以上十八年以下」としています。また「生徒ハ都テ入舎セシムルモノ」と寮生活が原則となっています。「入学ハ毎年一月七月第二土曜日」と定めています。月謝は「当中学区内ノ者上等十弐銭五厘・下等六銭二厘五毛、他ノ管下及ビ他ノ中学区ノ者上等二拾五銭・下等弐拾銭」と定めています。
また「教則」には「教科ヲ分チテ八級トシ、一級六ケ月在学合セテ四年トス」とあります。
8級から5級までの下等で2年、4級から1級までの上等で2年、合わせて4年ということになります。
変則中学とは学制に「当今中学ノ書器未タ備ラス此際在来ノ書ニヨリテ之ヲ教ルモノ或ハ学業ノ順序ヲ踏マスシテ洋語ヲ教ヘ又ハ医術ヲ教ルモノ通シテ変則中学ト称スヘシ」(第三十章)と規定しています。いわば経費、教員組織、教材等々での特別扱いでの過渡的な中学校といえるものです。
松代藩士佐久間象山は若いころ、上田の「活文禅師」が開いていた寺子屋「多聞庵」に六里(約24km)の道を馬で通い和漢蘭などの学問を学んでいます。活文禅師は松代藩士の二男の生まれです。慶之助の父敬長は佐久間象山とも交流があったということで、象山が上田で学んだことなども聞いていたかもしれません。慶之助が上田変則中学校に進学したのも象山が学んだ地ということがあったのかもしれません。
慶之助は少年の頃、甲府盆地を中心に奇妙な風土病が流行しているのを聞き、原因を究明したいという思いが芽生えたといいます。
上田町は横浜港の開港以来、養蚕・製糸業・蚕種業の中心地として発展し、蚕種・生糸の輸出に関わる横浜への直接販売ルートの確立、横浜の居留地での「上田町」の区画設置など明治20年ころまでは「信州の横浜」ともいわれていました。
上田町では幕末から明治初期の蚕糸業の発展にともなって、明治10年11月8日には第十九国立銀行の開業、翌年5月1日には県内最初の上田電信分局の業務開始、多くの私立銀行の開業などがありました。こうした社会的及び経済的趨勢の中に上田変則中学校が創設される必然性があったのではないかと考えられます。
慶之助は1年余りを上田変則中学校で勉学し、このあと父敬長の許しを得て、明治13年春に上京することとなります。
これまで慶之助が上京するまでのことが資料がなく不明となっていましたが、就学制度導入(学制発布)と学齢、小学校の創設、宮入家の言い伝えなどを考慮して跡付けました。
② 小学中学就学事情
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