慶之助は更級郡西寺尾村の地元の小学校を卒業して、上田変則中学校に入り、父敬長の許しがあって明治13年(1880)の春に上京します。
慶之助は上京すると本郷菊坂上の独逸学校に入学します。ドイツ語を学ぼうということは医学を志すということが明確だったことと思われます。慶之助は少年の頃に「甲府盆地を中心に奇妙な風土病が流行しているのを聞き、原因を究明したいという思いが芽生えた。」と生い立ちを記した資料(鈴木昶『医家列伝』2013年)があります。
この当時本郷に独逸語を教える私塾は貫通学校と独逸学校の2校がありましたが、菊坂近辺にあったのは独逸学校でした。おそらく菊坂上ということからたどると慶之助が入学したのがこの私塾と推測されます。この私塾は明治11年(1878)2月に山村一蔵によって開設されましたが、翌年7月32歳で肺病によって亡くなり、私塾は妻のミサが一旦廃校願を出しますが、そのあと再び開校願いを出しています。明治13年(1880)12月には門人たちによって、「山村一蔵先生碑」が長命寺(東京都墨田区向島)に建立されています。
山村一蔵の墓所は小石川真珠院にあり、この顕彰碑も元は真珠院にあったのが長命寺に移されたとも言われています。
顕彰碑の表面は、九鬼隆一(帝国博物館初代館長・枢密顧問官など歴任)の篆額とともに山村一蔵の経歴、裏面には建立した門人たちの名前が刻まれています。その門人の中に上田市の山極勝三郎の名前があります。山極は明治12年3月に上京し、この独逸学校に入学して独逸語を学んでいます。慶之助は山村が亡くなった翌年に入学しているので、この石碑には名前が刻まれていないものと考えられます。
慶之助はここで独逸語を学んだあと、明治13年(1880)12月に東京大学医学部医学予備門に入学します。