⑥ 帝国大学大学院時代

明治10年(1877)4月に創設された東京大学は明治19年(1886)3月の帝国大学令によって帝国大学となり、この時に大学院が設置されます。
①帝国大学ハ大学院及分科大学ヲ以テ構成ス(第二条)
②大学院ハ学術技芸ノ蘊奥ヲ攻究シ分科大学ハ学術技芸ノ理論及応用ヲ教授スル所トス(第二条)
帝国大学令では上記のように帝国大学は大学院と分科大学からなると規定され、大学院は学芸の「攻究」機関、分科大学は学術技芸の理論および応用を教授するための機関としています。
慶之助は京都府医学校を明治27年(1894)5月15日付で依願退職し、同年同月末に帝国大学大学院に入学します。京都府医学校には2年8か月余り教諭(生理学・衛生学)として勤務しますが、退職して大学院に進学した経緯は不明です。
大学院の設置以降、在学期限や授業料などは様々な変更がありましたが、慶之助が入学した頃の大学院規定の在学年限は5年、入学後最初の2年間は分科大学研究生の扱いで授業料は無料、あとの3年間も授業料は無料ということでした。明治24年(1891)以前は最初の2年間は授業料納付の扱いになっていました。
大学院に入学したからといっても特別の施設やカリキュラムが設定されているわけではなく、指導教授について自分の研究テーマを各分科大学で研究するというのが実態でした。
大学院も明治32年の新規定では院生を統括する主体が各分科大学であることが明文化され、「大学院医科」のような所属の区分が行われるようになります。
慶之助は大学院に入り、「内科学一般及脚気ノ筋」という研究テーマに基づいて研究しています。慶之助は東京大学医学部予科のころから脚気に悩まされており、自身の経験から脚気を研究テーマに選んだのではないかと思います。慶之助が在籍していた時の大学院生は94名で内訳は法学士19人、文学士20人、理学士17人、工学士19人、医学士11人、薬学士2人、農学士3人、林学士3人でした。当時の大学院学籍名簿を見ると夏目金之助(漱石)の名前が眼にとまります。漱石のテーマは「英文学科中英国小説」でした。しかし慶之助は翌年の1月には退学し、わずか7か月余りの帝国大学大学院生活でした。
慶之助は、眼科医を開業したということが伝わっていますが、これについては詳しいことはわかっていません。しかしながら、慶之助の経歴を見る限り、眼科医の開業はこの大学院時代の時だったのではないかと考えられます。大学院はカリキュラムが設定されているわけではないので、授業を受講するという制約はありませんでした。自由な時間が使えたこの時期に眼科医を開業したことが推測される由縁です。また、慶之助は明治25年(1892)に結婚しますが、大学院の授業料が無料とはいえ、生活費を得るために、眼科医の開業を思い立ったのかも知れません。眼科医を開業したものの、慶之助が大人や子どもの患者に対して厳しく接したので、うまくいかなかったと伝わっており、短期間の開業に終わったようです。

帝国大学大学院学籍名簿

帝国大学大学院学籍名簿

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