片山地方とミヤイリガイ

備後国川南村片山地区(現在の広島県福山市神辺町川南)では古くから原因不明の風土病が住民に多大な被害をもたらしていました。この風土病についての最初の学術的な記録が藤井好直医師が1847年(弘化4年)に著した『片山記』でした。これには「川南村には片山(別名漆山)という小高い山があり、この辺りの水田地帯に入ると皮膚が漆かぶれのようになり、下痢をして手足がやせ細り、顔色が黄色くなったり、さらに腹が膨れ上がってやがては死んでしまう病気が多発している。人だけではなく、牛も馬も同じように何十頭も死んでいる。何が原因かわからない。」と記しています。この風土病は「片山病」と呼ばれるようになり、藤井好直は明治10年にも『片山附記』を著し、「片山病は依然として発生し、死者が出ているが、いまだに原因は不明である。」と記しています。

広島県は1882年(明治15年)に「片山病調査委員会」を組織して、本格的な原因究明に乗り出しましたが、成果は見られませんでした。

深安郡中津原村(現福山市御幸町中津原)の開業医吉田龍蔵は、自らも片山病の患者を解剖して原因の究明をしていましたが、1903年(明治36年)12月片山病患者が死亡、京都帝国大学医学部の藤浪鑑教授に連絡し、病理解剖を依頼しました。剖検の結果、肝臓に寄生虫卵が見つかりましたが、虫体は見当たりませんでした。翌年、藤浪は同じく片山地区で死亡した患者の解剖を行い、肝臓の門脈から寄生虫を発見します。

1907年(明治40年)、吉田医師を中心に「地方病研究会」が組織されて研究活動が始まり、1909年(明治42年)に藤浪教授らは牛17頭の感染実験を行い、経皮感染することを実証しています。

1918年(大正7年)にはそれまでの「地方病研究会」は解散し、新たに有病地区9カ村からなる「広島県地方病撲滅組合」が組織され、生石灰による中間宿主貝(ミヤイリガイ)の殺貝事業が開始されます。

昭和天皇は、摂政宮時代の1926年(大正15年)5月と1930年(昭和5年)11月に神辺町等を訪れ、片山病研究の労をねぎらわれていますが、1947年(昭和22年)12月にも神辺町を訪れ、案内役の楠瀬県知事に「その後、片山病はどうなっていますか。」と尋ねたことに由来して、1948年(昭和23年)に「広島県地方病撲滅組合」を「御下問奉答片山病撲滅組合」と改め、殺貝剤を生石灰から石灰窒素に変更して駆除を進めました。

1950年(昭和25年)から広島県の有病地では実験的に溝渠のコンクリート化事業を開始し、1957年(昭和32年)から国庫補助事業として溝渠のコンクリート化が開始されます。

広島県ではミヤイリガイの殺貝事業により、新規の感染率は1967年(昭和32年)では0.09%と初めて1%台を割り、1959年(昭和34年)には0%、1964年(昭和39年)には0.02%、1965年(昭和40年)には0%、1966年(昭和41年)には0.02%で患者と認定されている者は30~35人ほどでした。1968年(昭和43年)、広島での陽性者はゼロとなりましたが、「御下問奉答片山病撲滅組合」は殺貝対策の手を緩めず、念を入れて殺貝剤を散布して経過を見守りました。その結果、ミヤイリガイは1973年(昭和48年)、かつての有病地から1個たりとも発見できず、ついに姿を消しました。溝渠のコンクリート化事業も1978年(昭和53年)にすべて終了しました。

1980年(昭和55年)、8年経過してもミヤイリガイは発見されず、「御下問奉答片山病撲滅組合」を発展解消し、新たに油断せずに経過を見守るという決意のもとに「片山病撲滅対策推進連絡協議会」が組織されました。

広島県では、終息に伴う式典は開催しませんでしたが、1991年(平成3年)3月に『日本住血吸虫病流行終息報告書』の冊子をまとめています。

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